医療ジャーナリスト和田努の「医療・健康・福祉」を考えるコンシューマーヘルス
 
HOMEサイトマップ

プロフィール
著書紹介
エッセイ
日録
医療関係リンク
お問合せ

2004年
2004年
2003年
2002年
在宅ケア専門診療所の仕掛け人
正岡子規と在宅ホスピス
「看護婦」から「看護師」へ
激震≠フ時代の医療界
欧米のがん戦略と日本
旅行医学≠ご存知ですか?
21世紀がん治療の新戦略(1)
21世紀がん治療の新戦略(2)
2001年
正岡子規と在宅ホスピス
 
 先日、伊予路松山市にある正岡子規博物館を訪ねた。子規の辞世の句を前にしたときは胸が締めつけられるような思いだった。子規は1902年(明治35)9月19日午前一時、35歳の短い生涯をを閉じた。百年前のことである。

 子規は結核の終末像ともいうべき脊椎カリエスにかかり、晩年は寝たきりになリ、病苦と闘いながら原稿を書きつづけた。有名な「病牀六尺」は、1902年5月5日から同年9月17日まで新聞『日本』に発表された。死の二日前まで書き綴った日録である。
「病床六尺、これが我世界である。しかも六尺の病床が余には広すぎるのである。」

 この有名な書き出しが書かれたのは死の四ヵ月あまり前だ。この時期は寝たきりで、厠に行く自由もない。子規の生活は今様に言えば、在宅ケアだった。さらに言えば在宅ホスピスだったと言っていいかもしれない  子規は現代に生きていれば、当然入院生活を送っていただろうと考えられる。彼が入院していたとすれば「病牀六尺」をはじめ数々の傑作が生まれていたかどうか……。

 子規は母八重子、妹律の献身的な看病と、河東碧梧桐、高浜虚子のふたりの高弟をはじめ、多くの友人に見守られ、死を真正面に見据えながら晩年を過ごした。

 子規の終の住処になったのは東京・下谷区根岸の敷地55坪建坪24坪の借家だった。庭には四季折りおりの草花が植えられ、子規の目を楽しませた。彼は、寝たきりの低い視線で、庭の草花を観察し、俳句を作り、写生もした。

 子規の病気は結核菌が脊椎に感染を起こし、背中、腰などに穴があいて、膿が大量に流れ出ていたという。その痛みは耐えがたく「死声を出して叫ぶなり」といった状態だった。子規のターミナル期(臨終期)には、主治医、宮本仲が、一日に五回も往診して麻痺剤(モルヒネ)を処方した。痛みをケアする緩和ケアによって、子規は死の直前まで住み慣れた家で、仕事をすることが出来た。

 家族、友人らの支援、医師による痛みのケアを受け、明治という時代としては、望みうる最高の在宅ホスピスケアを受けたといえないだろうか。

 今日本では一年に百万人の人が死んでゆく大量死時代≠迎えている。そのうちがんで亡くなる人は30万人もいる。がんのターミナル期の人は、住み慣れた家で、家族に看取られながら人生をまっとうしたいと望む人は多いが、現実には、その望みはかなえられることは少ない。それは、がんの痛みをケアする専門家も少なく、往診をする医師が少ないせいである。医療において「死は敗北である」と考える医師はいまだに多い。

 しかし、ここ数年、在宅ホスピス、在宅ケアに力を入れていこうという医師が、徐々にではあるが増えていることは好ましい傾向である。
「日本ホスピス・在宅ケア研究会」「在宅ケアを支える診療所ネットワーク」という医師の集まりも生まれ、着実な活動も行われるようになった。

 私自身も『在宅ケア医年鑑〜在宅ケアをしてくれるお医者さんがわかる本』(同友館刊)を出しているが、この本にリストアップされた医師の数は確実に増えている。発刊して四冊めの2002年版が先日でたが、四年前と比べて、医師の数はほぼ倍増している。

  「アドバンス・ディレクティブ」という言葉がある。アメリカの生命倫理の分野で言われはじめた言葉だ。自分の人生の閉じ方を「前もって指示しおく」という意味合いである。人生の完成期である自らの死をどのようにデザインしておくか、これは重要なことではないか。

 子規の生き方、死の作法は、21世紀のわれわれに多くのことを語りかけているようだ。

コピーライト