「日常生活にはほとんどないこと―肉体がナイフで切り刻まれ、喉に金属チューブが差し込まれること―が、医学的文脈においては正常のことで、どちらかというとルーチンな処置になる」
これはダニエル・F・チャンプリスというアメリカの社会学者の書いた『ケアの向こう側』(浅野祐子訳 日本看護協会出版会刊)“Beyond Caring”の一節である。
この本は医療社会学の立場から、10年以上にわたるアメリカの病院のフィールドワークと100人を超える現役ナースへのインタビューをもとに、病院という組織の中でナースたちが、日常業務で直面する倫理的矛盾をどのように捉え、対処しているか、を描ききっている。
本書の基調音というべき、キーワードが、the routinization of disasterだ。「不幸のルーティン化」と訳している。看護の仕事は、ルーティン化してやっていくことが基本であるという。医療現場は、ある意味で、不幸で充満した世界である。人間が病苦で苦しみ、あるいは死んでいく。こうした不幸をルーチン化していく、すなわち専門家として慣れていくことが仕事の基本だというのである。それはそうだろう。日常のように直面する死に過剰に反応したり、悲惨な出来事に、いちいちショックを受けていては仕事にならない。
<病院での仕事は彼らにとってノーマルな、ルーチンなのである。患者の三分の二はがいつ死んでもおかしくない重症者の多い内科フロアで、「何かあったんですか?」とナースに聞いても、彼女は廊下を歩きながら「いつものことよ、いつもの」と答えるだろう。目新しくもなく、興奮するようなことではない。>
ICUで中年女性患者が亡くなった。母親の遺体に対面するために家族が病室に入ってくる。家族は大声で泣く。病室の外では、少し前まで30分間ほど患者を蘇生させようと努力していた三人のナースが、何事もなかったようにコーンチップスを食べながら雑談している。ナースの一人が「私たちって,非人間的よねぇ?」と、著者に問う場面がある。
著者チャンプリスは「もし彼女が本当に非人間的だったら、そんなせりふさえ出てこなかっただろう」と書く。さらに次のように念を押す。
<病院では、死はよくあることで、苦痛も当たり前のことだ。しかし常に死や苦痛を扱い、一時的に「非人間的」(彼女たち自身の言う)になったとしても、ナースたちは感受性のある人間で、冷血漢で繊細さを欠く非道徳的な人間ではない>と。
言うまでもないことであるが、「不幸のルーチン化」とは、冷淡、無関心などとはおよそ異質のものであることを、強調している。私も同感する。ルーチン化とは、専門職化 professionalization と同義であるとも言えよう。
親は子どもをケアし、恋人同士も互いをケアし、子どもはペットをケアする。「しかし、ナースにとってケアは、経済的に報酬を得る仕事、すなわち職業である」というチャンプリスの指摘は当たり前のようで、ともすれば忘れがちなことではないだろうか。
たまたまナースについて、述べてきたが、医師やほかの医療者にもそのまま当てはまることだと思う。仕事の経験を積み、修練することによって、ルーチン化していく。しかも<不幸>をルーチン化するという医療者の特性と宿命を、非医療者である素人には理解できない。
医療事故を起こした医療者に対する、メディアの人間たちの正義の御旗を振りかざした攻撃ぶり、臨死の患者から人工呼吸器を外した医師に対する市民の反応は、「不幸のルーチン化」を理解することもなく、「非人間的」と非難しているようなものだ。
最近、「殺人容疑の立件微妙 射水市民病院呼吸器外し」という新聞記事を見た。もと外科部長を殺人罪に問えるかどうか、きわめて難しい、という記事だ。ケアリングを仕事にしている職業を理解しないで、安易に裁いてはいけないことを、考える必要がある。
『週刊医学会新聞』で、近藤克則氏と佐藤俊樹氏が対談している。佐藤氏は、『不平等社会日本―さよなら総中流』(中公新書)の著者で、東京大学大学院総合文化研究科助教授。気鋭の社会学者だ。佐藤氏は、平等にも「結果の平等」と「機会の平等」の2つがあって「機会の平等」は私たちのとって、最大限尊重すべき大原則にあたるとものだいう。
同じ条件でスタートし「努力した者が報われるべき」だとすれば、努力してお金をもうけたのは当然であろう。これが野放図に行われるのは問題はあるが。結果の不平等はある程度認めざるを得ないのである。
佐藤氏は言うのである。「(機会の平等を確保するためには)そのひとつは、再挑戦可能性の確保≠ネんです。これはずばり、心身の健康≠ニいってもいい。再挑戦できるためには、その前提として明日も挑戦できる心と体≠ナなくてはなりません」
「再挑戦」とは、敗者復活戦といってもいいかもしれない。そのための大前提が、健康≠ニいうわけである。それゆえに「健康格差」は絶対にあってはならない、というのだ。これは当然のことである。
ゴルフでも将棋でも、実力が違うものが対戦するとき、ハンデを設ける。ゲームを楽しむためだ。しかし、実人生ではハンデをつけてはならない。これが機会の平等である。角や飛車を抜かないお互いが互角で戦う20コマずつ並べた状態をオリジナル・ポジションという。『正義論』を書いた指示哲学者ジョン・ロールズの重要なキーワードである。私たちのオリジナルポジションは、心とからだの健康であると言いたい。 |