毎年炎暑の季節が訪れると、8月6日の広島、9日の長崎の原爆投下のこと、15日の玉音放送、そして9月2日、戦艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に署名した、日本人にとってつらい日々のことに思いを馳せることになる。
私自身、広島で原爆の被害を受けているので、余計に神経が過敏にならざるを得ないのかもしれない。それにしても久間防衛相の米国の原爆投下は「しょうがない」という発言は、どう考えても理解に苦しむ。どういう歴史感覚をお持ちの人なのだろうか。少なくとも長崎の原爆投下は、アメリカの心ある人は人道的に問題があったと悔やんでいる。例えば元駐日大使だったライシャワー博士は、長崎への第2弾の原爆は、「日本を降伏させるためには不必要だった」と明言している。この国の為政者たちの歴史健忘症はかなり重症である。
「戦後レジームを棄て去れ」という発言もたびたび聞かされるが、わが国の今日あるのは、戦後レジームが出発点ではなかったか。原点といってもいい。戦後レジームを棄て去ることはどういうことなのか。
1945年8月14日、天皇と政府はポツダム宣言をようやく受け入れることを決断する。そして8月15日の玉音放送の日になる。多くの日本人が、この放送を聴いた。当時東京帝国大学医学部の学生だった石坂公成氏も安田講堂で玉音放送を聴いている。文科系の学生は戦地に赴き、理科系の学生が徴兵猶予を受けて、大学に残ったのは、国が医師や技術者を必要としたからだ。旧制高校を半年短縮され、普通は2年間かけて修得する基礎医学を一年で終了させることを政府から要求され、玉音放送の日も、授業を受けていた。石坂氏は語る。
「その当時、天皇陛下は現人神であらせられましたから、一般の国民が陛下の声を拝聴したのは、終戦の日が初めてでした。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍びび」と言われた陛下の声はまだ私の耳に残っています。とにかくこの詔勅で私どもは、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をすることを知ったのです。
学生の中には悔し涙を流した人のありましたが、私は涙も出ませんでした。この数年間、我々は戦争のためにすべてを捨てて働いてきたわけですから、正に呆然自失の状態でした。」(立花隆編『南原繁の言葉』東京大学出版会刊から)
石坂博士は、免疫学の泰斗、免疫グロブリン(IgE)を発見され、ジョンス・ホピキンス大学教授、カリフォルニア大学教授を歴任、1974年文化勲章を受章された。 石坂博士は、先の話を次のように話を結んでいる。
「南原総長を始め、終戦時の東大や付属研究所の教授たちは、日本の将来を次のgenerationに賭けて、自分達の学者としてのphilosophyや、研究者としての考え方を学生達に伝えてくださいました。その意味では、戦中戦後に亘って私どもが受けた教育はすばらしいものであったことを申しあげておきたいと思います。」
石坂博士にとっての戦後レジームは世界的免疫学者として成長する出発点になっているように思える。
戦後のGHQによる医療改革も、もちろん功罪はあるが、非軍事化・民主化を医療の分野において実現している。この思想は、日本国憲法第二五条「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記されている。「人にふさわしい生活を営む権利」すなわち生存権の思想は、世界人権宣言(1948年)、WHO憲章(1951年)に継承されていることは多くの人が認めるところだ。
婦人参政権や男女同権、農地解放などもGHQの指令で断行された。当時、農村に疎開させられていた少年の私も、農家の人たちが、耕地が自分のものになった喜ぶ姿を見聞した記憶がある。私の母が、戸惑いながらも参政権を得て喜んで投票に行く姿を懐かしく思い出す。
戦後レジームは、新生日本の原点である。私たち日本人は大きな恩恵を得てきた。棄て去るべきは戦前レジーム≠フほうではないのか。
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