医療ジャーナリスト和田努の「医療・健康・福祉」を考えるコンシューマーヘルス
 
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エッセイ月刊「新医療」掲載分>健康の神々 ヒュギエィアとアスクレピオス

健康の神々 ヒュギエィアとアスクレピオス

 
 

 宇和島徳州会病院(愛媛県)で病気腎を移植した万波誠医師は、善い医師なのか、悪い医師なのか、正直言って私はよく分からなくなった。通常、良い医師は、善い医師と書かない。わたしの本音から言えば、善人なのか悪人なのか、あるいは善玉なのか、悪玉なのか―と書きたかったのだ。 

 私のような医学の素人から見て、病気を持った腎臓を移植するのはとんでもないという気がする。他の人に移植に耐える腎臓なら、ドナーにならずに、自分の体に残して、内科的に治療が続けられないのか、という素朴な疑問を持つ。

 「患者のためにやったのだ」と万波医師は言う。こういうセリフを聞かされると、現代の赤ひげという感じがしてくる。「医学の常識を無視している」「ルールを無視した暴走行為ではないか」という大方の移植医たちの意見を聞いていると、信号を無視するとんでもない悪徳運転手のように思えてくる。
 
 いささか唐突かもかもしれないが、ヒュギエイアとアスクレピオスという健康の神々のことを思い出した。これは世界的医学者として知られる細菌学者ルネ・デュボスの著書『健康という幻想』に出てくる話である。ヒュギエイアは、健康の守護神であり、理性的に健康を具現した女神である。「衛生」(hygiene)は、ヒュギエイアに由来している。ヒュギエイアは、健康に結びつられてはいるが、病人の治療はしない。バランスのとれた理性的な態度で健康を具現した美しくも愛らしい女神だったのである。
 
 私が、いささか拡大解釈をすれば、ヒュギエイアは、理性的に、正しい生活習慣を守っていけば、元気に過ごすことができるという理念を象徴している神だったのではないだろうか。健康を守るということは、賢い生活を送ることだったのである。生活習慣を改めて予防に力を入れる、ということも含まれそうである。
 
 しかし、とデュボスは書く。「病気を受けとめたり健康を取りもどすためには、賢い生活を送るというむずかしい仕事にとりかかるよりも、治療してくれる人を頼りにするほうが、一般にずっとやさしい」と。 ギリシャの伝説による最初の医師アスクレピオスのほうがヒュギエイアよりは時代の英雄として知られるようになり、脚光を浴びることになるのである。ヒュギエイアは、アスクレピオスに従者の地位に落とされてしまうのである。言ってみれば脇役になる。それはなぜなのか。医師アスクレピオスは、英知を授けたからではなくて、メスの使い方と薬の知識をわがものにしたからである。アスクレピオスの後継者、すなわち現代の医師の主な役割は、壊れたからだを修繕することで病気を治療し、健康を回復することだと信じている、とデュボスは言いたげである。
 
 万波医師は、典型的なアスクレピアスの後継者なのかもしれない。彼は腎臓移植医として、スキルは抜群に上手なのだろう。自分のメスの技量を医師としての最大のよりどころを求めているのかも知れない。しかし、真の衛生(hygiene)を考えることが少ないのではないか。衛生の女神ヒュギエイアの象徴するものは生を衛る哲学≠ネのではないだろうか。
 
 古人のなかには、アスクレピオスのことを「こう薬はりの神」と言ったというが、私はそうは思わない。医療には、メスもクスリも大切である。メスとクスリ(免疫抑制剤)で移植医療が進んできたことは、とりあえず医学の進歩として喜ぼう。だが、クロックアナロジーまるで時計のように、臓器を置換する医療は果たして理想の医療といえるのか。まして病気を持つ腎臓を移植することが。
 
 先日現役引退を表明した落語家の円楽師匠も透析を受けているという。その数25万人。移植を受ける人は千人に満たない。臓器不足を含めて移植にはさまざまな意味で限界がある。過剰な期待を持ぬほうがいい。いまこそ理性的態度で健康を具現した衛生の女神≠思い起こしたい。


 
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