医療ジャーナリスト和田努の「医療・健康・福祉」を考えるコンシューマーヘルス
 
HOMEサイトマップ

プロフィール
著書紹介
エッセイ
日録
医療関係リンク
お問合せ

エッセイ月刊「新医療」掲載分>「匿名社会」が患者のプライバシーを侵害する

「匿名社会」が患者のプライバシーを侵害する

 
 

 ネット暴力≠ニいう言葉がある。インターネット上の掲示板に書き込みされ名指しで中傷されたり、プライバシーを侵害されるケースが増えている。書き込みする人は匿名≠ナある。匿名という隠れ蓑を着けて相手を攻撃する。攻撃する側は一向に傷つかない。透明人間が相手の隙や弱みを見つけて一方的に斬りつけるようなものだ。卑劣な暴力だ。
 
 読売新聞がこんな例を紹介していた。大分県姫島村。人口2700人ばかりの小さな島の村役場のホームページの掲示板に、数年前、数万件の書き込みが殺到した。この村は成人式に簡素な洋服を着るという慣習があり、着物姿の女性は出席できなかった。女性に同情する書き込みが殺到する。同情がエスカレートして「(島は)地震でなくなれ!」「(島民は)皆殺しにされればいい」と過激な書き込みが数万点も殺到したという。村の掲示板はわずか1週間で閉鎖に追い込まれた。

 医師限定の掲示板「So-netm3.com」というサイトがある。通称「m3」と呼ばれているようだ。私のような非医師は、その掲示板をのぞくことはできない。
 
 奈良県大淀町の町立大淀病院で昨年8月、当時32歳の妊婦が出産時に脳内出血を起こし、19病院に受け入れを断られ、結局大阪の国立循環器病センターで死亡した事件があった。
 
 「m3」の掲示板に、昨年10月に、このケースが報道された翌日から、書き込みが始まっているという。読売新聞の伝えるところによると、匿名で「ソースが確実な、きょう聞いた話」「この文章はカルテのコピーを見ながらまとめました」と前置きして、「患者の最終月経の日付から妊娠中の経過、8月7日に入院して意識不明になるまでの身体状況や検査値、会話など、カルテや看護記録とほぼ同じ内容を複数回に分けて克明に書き込んでいた。この中には、入院前の記録など当時、遺族が入手しなかった内容や当日の医師の勤務状況など病院関係者しか知らない内容も含まれていた」(4月29日 読売新聞)
 
 「m3の」掲示板は、医師専用のであるから主治医の同僚医師か、ないしは同僚医師から別の医師に情報が伝えられ、書き込みをしたものだろうか。わたしはブログの存在を否定しないし、医師が書き込みをすることも非難するつもりはない。しかし書き込みを患者は見ることははないだろうと、患者のプライバシーを侵害することは許されるのだろうか。

 医師限定の掲示板にとどまっている間はまだいい。情報発信者が「転載しても結構です」としたため、同じ内容が、かなりの数の公開ブログに転載された。
 
 医師、看護師ら医療者は、最も患者のプライバシーに関しては敏感でなければならない人たちのはずである。医療者は患者のプライバシーの深部にアクセスできる立場にあるゆえに、古くから機密保持の職業倫理を課したのだ。このことは『ヒポクラテスの誓い』の中にも見ることができる。「治療の過程で見たり聞いたりしたこと、治療とは関係のないところで知りえたことでも、外部に口出ししてはならないことを多言することは恥ずべきことである、という信念を持って秘密を守ります。」(和田努訳)
 
 ブログの発信者は、ヒポクラテスなんて古いよ、と嗤うだろうか。では、もっと新しい『ジュネーブ宣言』(1948年、1968年修正)を引用しよう。

 「患者が死んだ後でさえ、患者が打ち明けた秘密を大切に守ります」(和田訳) 

 この「m3」には14万人の医師が登録しているという。書き込みの「注目トピック・ランキング」を載せているが、なんと1位が、町立大淀病院のケースなのだ。総閲覧数は21万人を超える。
 
 21万人というのは延べ人数なのだろう。それにしても膨大な人数の医師が、アクセスしていることになる。もちろんごく一部を除いては、発信者のプライバシー侵害に眉をひそめていると信じたい。 

 匿名の発信者は暗闇に銃を撃つ。相手の痛みは見えない。「匿名社会」の冷血な暴力が背筋を寒くする。


 
Copyright (C) Tsutomu Wada All Rights Reserved.