インフルエンザの特効薬「タミフル」を服用した少年少女が自宅マンションから転落死亡するなど、異常死が相次ぎ、大きな波紋が広がっている。政府はいわゆる異常死とタミフルとの「因果関係は証明されていない」言い続けてきたが、最近になって「十代の使用中止」を決定した。ならば大人や10歳以下の子どもはいいのか。
なんとも歯切れの悪い決定という感じはぬぐえない。ところで厚労省の「インフルエンザに伴う随伴症状の発現状況に関する調査研究」の主任研究者である横浜市立大学大学院の横田俊平教授(発生小児医療学)の教室が、タミフルの発売元である中外製薬から奨学寄附金を受け取っていたということが明るみに出て、利益相反≠ナはないかということになって厚労省の調査班から外れたという。
一連の報道をみていると、横田教授、厚労省が、利益相反マネジメントにまで神経が行き届かなかったのではないかと思う。もちろん利益相反イコール悪とはいえないが、研究者も余計な疑惑を受けないために、企業との利害関係を開示することは必要であろう。
メディアの中には、タミフル事件を産・官・学の癒着の構造という図式で見ようとするものもあるが、成功していない。メディアは事件が起これば、悪玉を血祭りにあげ、勧善懲悪物語に仕立てるのが大好きなのだ。
しかし、今回の事件で悪玉に仕立て上げるものは見当たらない。究極の犯人探しをしても、悪玉である証拠がない。<産>が<学>に奨学寄附金を出したというが、このこと自体なんの問題もない。産学協働が推進されている現在、産から学に金が流れるのは当たり前のことなのだ。寄付金を受け取ったから製薬会社に有利なデータを出すのではないか、というのは単なるかんぐりに過ぎない。
<官>はどうなのか―。官は強大な権力を持っている、と考え勝ちである。しかし生殺与奪の強力な権力を持つものは、かつての君主だけであって現代の国家は、国民の健康や福祉を考える「生・権力」を持つと言ったのは、20世紀の知の巨人といわれたミシェル・フーコーである。フーコーは「生・権力」を「牧人・司祭型権力」と呼ぶこともある。「牧人=羊飼い」が羊の群れに及ぼす権力ということだという。羊飼いは羊を集め導き、個々の羊が飢えと渇きを満たすために気配りをする。羊飼いは献身的に羊の群れの安全と至福のためにどんなことでもする。
王様のハードな「生殺与奪の権力」(死の権力という言い方もある)からソフトな「生・権力」に近代は変わったのだという。フーコーは『臨床医学の誕生』という本の中で、「流行病」が蔓延することを阻止するために全国各地に監視体制を敷き、国家的規模での介入をすることになる。医学は国家的な任務になり、中央集権化する、という。これも国民を生かすための「生・権力」である。
インフルエンザはまさに流行病である。タミフルを予防用に、治療用に国や都道府県がが大量に備蓄しているのは、まさに「生・権力」なのである。「死んでほしくない、生きて欲しい」という行政(羊飼い)の温情なのである。
フーコーまで援用していったい何が言いたいのか。「生・権力」を行使する厚労省は、善意で「国民に生きて欲しい」とタミフルを認可し、せっせとイ備蓄しているのだ。犯人捜し大好きなメディアも<官>を悪玉に仕立てることは難しいのである。勧善懲悪の物語は分かりやすくて面白い。しかしタミフル事件では、悪玉が見つからないので、メディアの大好きな善玉、悪玉の話にしにくい。だから分かりにくくしているのではないか。
とはいえ「生・権力」がいくら善意であってもソフトだとしても、運用を誤れば、余計なおせっかいになり、時に危険極まりないものに逆転することは官も市民も知るべきだろう。そしてここが肝心なところであるが、ソフトな権力だとしても、利益を得る側と不利益をこうむる側が必ずあるということだろう。
|