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記者会見風景。正面には院長はじめ白衣を着けた病院の幹部職員が並んでいる。院長が起立して「あってはならない事故を起こしてしまいしました」と深く頭を垂れる。テレビの映像で、新聞の写真で、まるで儀式のような似通った光景を何度見たことだろう。
医療事故の報道件数は99年を境に急激に増えている。この年は横浜市立大学病院の患者取り違え事故が起きた年だ。医療事故が急増したというよりは、医療事故のマスメディアへの登場件数が増えてきたというほうが正確だろう。
私は記者会見風景を見るたびに暗澹たる思いにおちる。記者会見にいたる過程は一様ではないにしても、多くの場合、病院側が自主的に医療事故を公表しているケースはそんなに多くはない。多くの場合は、新聞社、テレビ局、出版社に宛てた被害者・家族の実名や匿名の電話や投書、あるいは内部告発から医療事故は浮上する。私自身もE−メールや電話で、その種の情報を寄せられることは少なくない。メディアが動き始めたとき、医療事故は浮上することになる。取材・報道する側に大きく立ちはだかるのは、医療機関の隠蔽体質だ。なかでも報道者を悩ませるのが組織的な隠蔽である。全職員に緘口令を敷く、カルテを改ざんする…。
マスコミ人種は、私を含めて、隠蔽すればするほど、暴こうとする。これはマスコミ人種の生理のようなものだ。取材する側は「医療事故を起こして人の生命を何と思っているのか」「病院は誠意ある説明責任を果たさないのはけしからん」と、正義の見方≠気取る。一方医療側は「私たちは好きこのんで医療事故を起こしたのではない。マスコミは何故医療者を悪人に仕立てるのか」……と、医療側、報道者側とは、互いに不信感をつのらせていく。
医療事故がメディアに報じられる様子は、スキャンダルを暴くという構造に限りなく近いように思える。これは典型的な「非難文化」である。お互いに相手を非難しあうことで、何が生まれるのだろうか。
私は、医療事故を謝罪する記者会見の光景を見て「暗澹たる思いにおちいる」と、先述したが、それは記者会見にいたる過程において、医療側、メディア側との間に不幸な「非難文化」が横たわっているからだ。
医療機関は、医療事故の真相を隠蔽する。隠蔽が綻びて、スクープされたとき、あるいはスクープを予見したとき、謝罪記者会見を開くことになる。
医療事故をに多く関わっている弁護士の石川寛俊氏も、著書『医療と裁判』(岩波書店刊)のなかで次のように述べている。
「
大学病院がいち早く謝罪の記者会見をしたり、関係者の処分を裁判確定前に発表して、医療事故への迅速な行動をとる背景には、警察やマスコミによる捜査・報道によって病院の評判の低下することへの配慮がある」と。
医療側が、警察やマスメディアに追及されたから謝罪の記者会見を開くのではなく、隠蔽体質を自ら改善して真相を開示する慣行を創出しなくてはならない。また、マスメディア側もスキャンダルを暴き、医療機関を非難することが、社会正義だと錯覚してはならない。そのような「非難文化」からは、複雑な医療事故を理解したり、改善措置を明らかにすることには全く役には立たないだろう。医療側も報道側も「非難文化」から脱却しなくてはならない。医療事故を起こした医療機関や当事者を非難して防げるものではない。
米国の医療事故を分析した公的機関の文書のタイトルは“To err is Human ”(人は誰でも間違える)だ。 間違いを犯すことを避けられない人間が、「安全文化」を育てていくにはどうすればいいのか。医療側、マスメディア側双方が、人間を見る優しさと、医療事故を分析していく知恵を共有しなくてはならないのではないか。
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