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ポーランドの旅から帰ってきた。
アウシュビッツ収容所を自分の目で確かめるための旅だった。かの地を訪れることは私にとって長年の念願だった。強制収容所は、国立の博物館として遺され、世界遺産に登録されている。
アウシュビッツの悲惨さについては多くの文章、映像が残されているが、あらためて眼の前に、何万足の靴、メガネ、身体障害者の義足や義手、所有者の名前と住所が書いてあるトランク、女性の毛髪・・・とりわけ幼児の靴や洋服を見せつけられると息苦しくなってくる。「死の工場」だったガス室の断末魔の人たちの爪あとも痛ましい。収容所では多くの医師がかかわった。病気を治療するためではなく、虚偽の病名のカルテを作成したり、人体実験をするためであった。ナチスの犯罪は戦後ニュールンベルク裁判で裁かれ、ヒトを対象とする医学研究の倫理原則を定める「ニュールンベルク綱領」として結実している。冒頭の「被験者の自発的な同意が絶対に必要である」は、インフォームド・コンセント≠ノつながることはいうまでもない。
アウシュビッツを訪れて、あらためて意外に思ったことは、強制収容所のある土地が、まったく人里はなれたところにあるのではなく、そんなに遠くないところに人が住み、町があり、村があり、農地が広がっていることだ。普通の市民が生活している同じ地平にあることだ。そのことは、常軌を逸した狂気や極悪非道な鬼のような異常な人間が行った行為ではなく、ごく普通の人間≠ェ犯した行為であることと通じるのではないか。
アウシュビッツ収容所長ルドルフ・へスがまとめた手記『アウシュビッツ収容所』(片岡啓治訳・講談社学術文庫)がある。ヘスは、職務に忠実、家庭では良き父、良き夫、どこにでもいるような平凡な男である。訳者の片岡啓治氏は「ヘスの恐ろしさ、そしてナチの全行為の恐ろしさは、まさに平凡な人間の行為だった、という点にこそある」と書く。
ドイツに生まれ、ナチスの迫害を避けるためにフランス、アメリカに亡命し、戦後アメリカで活躍した政治哲学者、ハンナ・アレントは『イェルサルムのアイヒマン』を書く。ユダヤ人絶滅計画の実行に深く関与した元ナチ親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、イスラエルの特務機関によって、1960年にアルゼンチンで逮捕された。そしてイェルサレムで行われた裁判で裁かれた。この本は、その裁判の傍聴記録である。副題は「悪の陳腐さ」である。
ハンナ・アレントの見たユダヤ人大量虐殺にかかわったアイヒマンは、平凡極まりない小心な小役人に過ぎなかった。まさに悪の陳腐さだった。二十世紀は戦争の世紀といわれた。しかし新しい世紀を迎えても戦争は終わることはない。アフガン攻撃、イラク戦争……。地球上の戦争の火種は絶えることはない。二一世紀もまた戦争の世紀なのだろうか。戦争は絶えず正義の御旗を掲げる。戦争は、極悪非道、冷酷無残な人間が行っているのではない。「家庭では良き夫、よく父でもある」正義の人≠ェ遂行しているのだ。
香山リカ著『いまどきの常識』(岩波新書)によれば、「平和」という単語を口にした瞬間、周りの空気が凍りつくのだそうだ。「反戦」「理想」「平等」なども同じ効果をもたらすという。だとするならば、この小文は、いまどきの世間の流れに逆らっていることになろう。
しかし日本のいまどきの常識と世界の常識は必ずしも一致しない。まして知識人の間では平和や戦争のことは、むしろ最近になって真剣に論じられている傾向がある。欧米の医学雑誌も、病気の研究論文が多くを占めているのは当然であるが、最近は暴力が大きなテーマになりつつある。9・11以降その傾向は顕著である。暴力はもとより、戦争、紛争、難民、人権侵害に関する論文が目立つ。これらの問題を政治の問題としてだけではなく、医学や衛生の問題として考えることが、世界的な潮流になってきていることは注目に値しよう。
<平和>は永遠のテーマなのである。
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