医療ジャーナリスト和田努の「医療・健康・福祉」を考えるコンシューマーヘルス
 
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コンシューマーヘルス
わたしはどんな活動をしてきたか?
 
| NHKテレビディレクター時代 | フリーのジャーナリストになって | 老人医療制度を変えたスクープ|
| 講演活動とわたし |
 
 ■ NHKテレビディレクター時代
 私はNHKのディレクター、プロデューサー時代、意識して医療問題を取り上げたわけではありませんが、結果的には多くの医療問題、ないしはその周辺の問題をを取り上げていたような気がいたします。スモン病、原爆症、毒ガスの後遺症など……。
 瀬戸内海に浮かぶ大久野島は、今は国民休暇村になっていますが、太平洋戦争時は、旧陸軍の毒ガスを製造する工場がありました。ここで青酸ガスやイペリットガスなど猛毒ガスを生産していました。全人類皆殺しにするだけの量だったと言います。私がこの島をテレビのドキュメンタリー番組にとりあげた1970年代はじめは、毒ガスづくりに徴用された人々は多く生存していました。その人たちは後遺症で悩んでいました。多くはがんでした。
 私は、後遺症に悩む人たちにひとりひとりにお会いして証言を積み重ねていきました。毒ガス島をテレビの映像で紹介したのは、おそらく初めてだったと思います。
 『報道特集・毒ガス島の傷痕』(一時間番組)は、多くの人たちに衝撃を与えました。人類をみな殺すことのできる致死量の猛毒化学兵器を製造していたことを知る人は多くなかったのです。重大な戦時秘密としてひそかにつくられていたのです。
 テレビ番組批評欄も好評でした。ある批評家は、「テレビのドキュメンタリーが長年かけて習得した手法の集大成ともいえる秀作である」と評価してくれました。数多くの作品を制作しましたが、私にとって思い出に残る作品のひとつです。毒ガスの後遺症に悩む人たちにかかわる医師の真摯なヒューマニティも印象的でした。
 私自身が原爆の被爆者であるということと広島放送局に勤務したことが、重なり合って、原爆をテーマにした番組を多く制作しました。原爆症に悩む人びと、とりわけ小頭症の問題を告発しました。ここでも原爆症患者と医師、看護師ら医療者のかかわりに感銘しました。
 東京本部に転勤した60年代後半から70年代前半は、学生運動の時代でした。NHK報道局社会番組班に配属された私は「東大紛争」に取り組みました。来る日も来る日も白いヘルメットと黒いアノラックを着けて東京・本郷の東大キャンパスに取材に出かけたものでした。全共闘運動は、医学部闘争でもありました。「医局講座制反対」「博士号ボイコット」など、明治以来、医学教育の積年の病巣を摘出しようという意気込みで全国の医学部に広がりましたが、問題は解決しないまま運動は終息してしました。膿を出し切っていないまま、日本の医学界にいまだ病巣は残っているような気がいたします。
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 ■ フリーのジャーナリストになって
 1972年、NHKを退職し、医療を専門領域のフリーのジャーナリストとして再出発しました。月刊『現代』、月刊『宝石』、『週刊ポスト』などに医療に関する論文、ルポルタージュを発表するかたわらテレビのレギュラー番組にも出演しました。
 東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の『お元気ですか』(健保連提供)。女優の南田洋子さんがメインキャスター。医療や健康を考える番組で、私が現場を取材する役どころ、南田さんが総括の司会者でした。テレビの裏方としては多少の経験はあるつもりですが、カメラの前で語り、演技する経験は初めてのことで、南田洋子さんら共演者、スタッフには大いにたすけられ、教えられたものです。
 やがてこの番組はフジテレビに移行されました。『すこやかさん』(健保連提供)と番組名は変わりました。メーンキャスターは、渡辺文雄さん、押阪忍さんらでした。私は専ら現場を取材しました。北は北海道から南は沖縄まで、病院、老人ホーム、医師、看護婦、一般の市民…、無数の施設、数多の人々に出会いました。海外取材にも多く出かけました。アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、北欧…などなど、貴重な勉強をさせてもらいました。これら取材体験は私の財産です。ご一緒に仕事をさせてもらった渡辺文雄さんは故人になられました。人生の大先輩の渡辺さんから、多くのことを学ばせてもらいました。冥福をお祈りいたします。
「お元気ですか」写真
『お元気ですか』


「すこやかさん」写真
『すこやかさん』
 
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 ■ 老人医療制度を変えたスクープ
 私がジャーナリストとしてスタートした70年代は、人口の高齢化が本格的にすすむ時代でした。高齢者問題に力を入れてきました。埼玉県三郷市に「三郷中央病院」がありました。この病院は老人を食い物にする悪徳病院でした。丹念に取材して、廃院に持ち込みました。この事件は国会問題にもなり、厚生省が老人医療を見直しするきっかけになった事件でした。私としては思い出深いスクープです。
 武蔵野市福祉公社をつくり、老人福祉の歴史を拓いてきた山本茂夫さんが『福祉部長 山本茂夫の挑戦』という本のなかで私のことを紹介してくれています。いささか長くなるが引用させていただきます。

 老人病院の実態を見聞する機会は多いが、それを取り上げ、論じるのは、ごく少数のジャーナリストだけで、老人福祉の専門家や政治家たちは、言の葉にも乗せず、知らんふりをきめ込んでいる。
 月刊誌『宝石』(昭和57年3月号)で、NHKディレクターであった和田努氏が三郷中央病院を告発したのが、老人病院の非情な処遇を取り上げた最初のものであった。
 和田氏は病院関係者の研究会の席上、私立病院の管理職だった人から、悪質病院の話を聞き、病院に勤めて要る職員や退職した人、家族などから困難な事情聴取を重ね、埼玉の三郷中央病院が典型的な悪質病院であることに確信を持ち、病院の名前を明記して実態を公表することを決意し、記事にした。それに先立って、和田氏は、病院院長から「名誉毀損で訴えるぞ」などの嫌がらせを受けながら、さらに『老人でもうける悪徳病院』(エール出版)で、薬づけ検査づけの実態やお年寄りをベッドに縛り付ける看護婦の姿を詳細に伝えている。
 三郷中央病院は、許可された病床が177床なのに、200人以上の患者がつめ込まれ、いやがる老人をベッドに縛り付けて、検査と点滴を行っていたと和田氏は告発した。
 昭和56年一年刊に200人近くの老人がこの病院で亡くなり、退職した職員は「ふとんを強いた殺人工場です」と語ったという。
 和田氏の告発を契機に、厚生省は検査づけ点滴づけの老人医療を改善するために、昭和58年老人保健法を制定した。一ジャーナリストの果たした社会的意義は大きい。(山本茂夫著『福祉部長山本茂夫の挑戦』より)
 
 山本茂夫さんは、地方公務員でありながら官僚主義と戦いながら自治体の福祉を内部改革していった人です。今は障害者が気楽に訪れることのできるバリアフリーのレストランを経営されていると聞いています。老人福祉の実践者である山本さんに、わたしのジャーナリストとしての活動を評価していただいたことは嬉しいと思います。
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 ■ 講演活動とわたし
 最近は、講演や大学院、大学での教育に力を入れています。聴き手の皆さん方に直接お話をし、直接はね返ってくる反応、質問を受けるという双方向のコミュニケーションは、活字や放送では期待できないものです。 患者の権利意識も高まり、医療事故の多発ということもあるのでしょうか。医療、健康問題に関心が高まり、市民(主に自治体からの要請)、医療関係者、企業の経営者から、講演を依頼されることが多くなりました。時間の許す限りお話をさせて頂くようにしています。
 
 ◎最近はこんなテーマでお話しました。
 一般市民向け
 「元気で長生きをするために」
 「がんにならないための予防法」
 「医療事故に遭わないために」
 「インフォームド・コンセントとはなんだろう」
 「セカンドオピニオンのとり方」
 「賢い医療消費者になるために」
 「いのちの主人公はあなたです」
 「カルテは誰のものか」
 「人生九十年時代〜高齢社会をを考える〜」など。
 
 医療専門家向け
 「生命倫理と医療現場」
 「ジェネリック医薬品と薬剤師」
 「代替医療のこれから」
 「治しの医療と癒しの医療」
 「混合医療のゆくえ」
 「21世紀の高齢者医療」
 「医療事故と病院のリスクマネージメント」
 「患者満足とはなにか」など。
 
 企業の経営者向け
 「社員のメンタルヘルス」
 「少子高齢化をどう考える」など。
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